明日への希望

確かにあんまりだよなぁとはちょっと思ってる。最近の日記の話。しかしまぁ永遠に続きそうな私のネガティブトークがまるで世の中のためになってないとも言い切らないだろう?だろう?もしかしたら孤独な一人酒のちょっとした肴にくらいなるかもしれない。世の中を良くするために日記を書く趣味などさらさらないけどさ。
なんだろう、毎日ひたすらにどんよりと暮らしているわけじゃあないんだ、実のところ。相変わらず鬱々とすることもあるし、意味もなくさめざめと泣いたりパニックに襲われることもあるけれど、楽しいことはずいぶんと増えた。
ただその楽しさというのは、漠然と「今」を楽しんで、「あはは」と大声で笑い声をあげる、その「今」が楽しくて、だけどそこには未来への期待や希望なんていうものはまるでなくて、心のどこか片隅ではずっと明日を憂いている。いや憂いてさえおらず、明日など来ても来なくてもどうでも良い、期待など何もない、という感じ。それでも笑い声をあげる、そのときは楽しいし、不幸せなわけじゃないからそれで良いのかなぁ、なんて思ったりもしてる。
引越し以来、この町が嫌いだ嫌いだと言い続けている私だけれど、実はそんなに悪い町じゃなく良いところもたくさんある。当たり前だけど。暮らしやすさなんていうのも、ライフスタイルにあってるかどうかとかもあるかもしれないけれど、ほとんどは個々の好みによるものだろうしね。
私の場合は何かに付け人間関係に煩わされるというか、そういうものを求めつつもものすごく気に病むものだから、うちの田舎同様、こういう狭い閉鎖的な町では自身に問題を抱えやすくて暮らしにくいというのはやっぱりあるんだけど、これも当然ながら、どの町にも嫌な人もいれば良い人もいるし、相手が良い悪いというより相性だとか勝手な思い込みというのが人間関係のほとんどを占めるんだろうから、まぁぶっちゃけ私などどこへ行ったところで暮らしにくい、生きづらいのだ。
もう捨ててしまった以前のアカウントでの日記に書いたことがあるのだが、私はやたら人に話しかけられたりしやすく、それを私は「絡まれ属性が高い」と自称している。なんかちょっとしたイベントがあって、ここ数日うちの近所にはうようよ警察官がいて町を監視していたんだけども、他の人はそうでもないのに私はやたらと声をかけられる。いや尋問とかじゃなく、単に挨拶なんだけども。この通りを歩くのに一体何回挨拶をすれば良いのか、という感じで、こんにちは、こんにちは、こんばんは、こんばんは。煩わしい。
でもそういうもののすべてが嫌なんじゃないんだ。マンションの隣室のおばさんは私の顔を見るたびに、待っていたエレベーターが扉を閉めて通り過ぎようが何分も何分も私に話をして、最後には「何かあったら言ってね」と言ってようやく自室に戻る。たった一度行っただけの料理屋のおばあちゃんはわざわざ店に戻りお菓子の袋を私に握らせ、立ち話の去り際にはちょっと心配そうな顔で「何か困ったことがあったら話においで」と言う。
この世界には愛があふれてる。でも悪意も同様に。私はそれらを一緒くたに取り込んで何もかもを吸い込んで、嬉しかったり悲しかったり、息苦しくなる。でも悪意なんてただの妄想かもしれないね。私のフィルターがもっと高精度だったらこうはならないのかもなぁー。高性能フィルタ、どこに売ってますか?