ちるちゃんは言った

 −「『僕が無自覚に孤独だったこと』を気付かせてくれた」恋人を持つちるちゃんは、こうも言った。
 −「僕の抱える病的な理解されなくてもいいよという姿勢が、誤解を生み、また自閉的に、そして誰かを傷つけてきました」


私は常々自分に社会性が乏しいことをはっきりと自覚し、ときにはそれをとても苦にして生きてきた。幼かった頃はその自覚がとても強く、でも幼さゆえか、相容れないものが多すぎることをそれほど気に病むでもなく、ひとり空想の世界に耽って楽しく暮らしていたように思う。
だんだんと大きくなるにつれ、私は器用に立ち居振る舞い、また人の真似をして、いろんな人にそこそこ気に入られる人物に成長した。私のことを、それなりの社会性を持った人間、と感じた人も少なくはなかっただろうと思う。そうして私の中の孤独はだんだんと無自覚なものへとなりをひそめていった。
実際、自分でもすっかり私は良いおとなになったのだと思っていたし、孤独のかけらさえも感じなくなっていた。私は幼い頃からのこまごまとした思い出を明瞭なままに山のように抱えているのだけど、そんなものを思い出すひまさえないほどに、いろいろな社会的かかわりの中で生き生きと懸命に生きていた。
ところが、いよいよもう落ち着かねばというこんな歳になったある日を境に、私の中からは膨大な幼き日の思い出が、光るビーズの粒がガラスの小瓶からあふれ出すかのように次から次へと思い出され、それらを掻き集めると真ん中には動かしようのないはっきりとした形を持って私の中の孤独がずんと腰を据えていたのである。
きっかけは様々にあったがそれを言ったところでわかる人はおらぬだろうし、そもそも説明したところで意味がないので書かないが、悔やみもしたし、喜びもした。途方に暮れ泣きもしたし、希望に打ち震えもした。


誤解を生むことはあるとき仕方がないことかと思う。誤解ならばいずれ解けることもあるし、そもそも情報がうまく伝達されていないだけなので、それが悲しい関係を生むものであってもそれほど憂うものではないだろう。
ただ、傷付けてしまうことは、それが例えばどうしようもなく致し方ないものだとしても、やはり最大限の努力を持って回避、もしくは軽減したいと思うだろう。相手が誰であろうと、どんな理由であろうと、傷付けてしまうようなものからはなるべくならば遠ざけておきたい。ただこれは往々にして諸刃の刃である。だから、どうなのかな、所詮無理なことなのかな、と私は最近悲観的だ。
私に「裏切られた」と言った人がいて、私は今までの人生ではじめて自分に向けられるそんな言葉を聞いたので、ひどく傷付いたことがあった。言った当人もずいぶんと傷付いていたからそんな言葉を放ったのだろうけれど、人はこんなにも身勝手に人に何かを期待したり、評価したり、傷付いたり、傷付けられたり、そうしてわかりあえないままに生きていくものなのかなぁと思ったら悲しかった。
何もかもが何の意味もなさないばからしいだけのものに思えて、私はもう孤独なままでいいや、と思った。そうしてまだそこにいて考えあぐねている日々の中にいる。


まぁうまく使い分けて生きていけるくらいの図々しさは身に付けているし、やさしさだけは欠くまいという信条もなくしたわけではないので、なんとかかんとか生きていくんだろう。うん、何ができなくても、ただやさしい人がいいなぁ。器用でも、ずるいのは、いやだ。


私はあんまり、というかほとんど、人の日記というのを読まないのですが、唯一、と言ってもいい、ただひとりいつも拝見させていただいているのがちるちゃんの日記です。ほわほわして、やさしい感じがして、読むと気持ちが良いのです。ちるちゃん、いつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。