先見

先を見ることは大事なことなのだろう。過去に捕らわれ動けないのは悲しすぎるし、今しか見えず現状に振り回され右往左往するのはばからしすぎる。しかし悲観しすぎて憂うべきでない、もしくは楽観しすぎて期待すべきでもない未来を勝手に思うのもまたつまらなすぎる。とは言え先を見ることは大事なのだろう。なぜなら、以下、前述の通り、意味もなく二度繰り返す。
ただその先を推測、考察するにあたっての判断材料が、まま「現状」だけとなりやすく、そしてそれは間違いをおかしやすいのではないかと思うので、なるべくならばその視点は捨て去りたい。なぜなら「今」など常に移り変わり揺れ動いているのだから、だとすれば、生まれてこのかた変わらず持つ習性、価値観のために、おそらく過去に幾度となく繰り返してきたであろう己の足跡を冷静に評価し、認められない部分は繰り返さぬよう自分を戒め今後の行動に反映させねばならぬ。ところがこれが思いのほか難しい。
人の意見を大いに取り入れることを、ある人々は「柔軟」であるとか「寛容」であるというが、果たしてそれもどうなのか、とも思う。人の言葉で語ること、人の心を語ること、は、私はきらいだ。そんなものはいっときその気になっただけの、所詮フェイクではないのか。
人が語る社会性や倫理感や何やかやなど、この誰とも離れられそうにもなく、しかし実はどうあがいても逃れることのできない孤独な「我」の世界をただただ生きさらばえるだけの時間の中で、それがどんな幸福を恵んでくれるのか、そんなもの恵んでくれやしないだろう。この世界は己を生かし続けるのみである。
では自分を信じるよりほかないのではないか。もったいつけて人の心を語るなよ、わかったような顔をしてありもしない言葉を代弁するなよ。
ただ、どんなにわがままに生きようとも、人を欺くことは悪であろうし、なぜそうして人を欺こうとしてしまうのかはよく自問すべきであろうとは思う。


ただ生きていくのだよ。


ああ、この日記にはなんの問題提議も結論も何もありません、ただ思いついたままだらだら書いただけの日記なんだけどね。